随分と遠いところまで来たものだと紫煙を吐きながら、ふと、思った。 波間を漂う船のようにゆらゆらと行く先の見えない不安な恋ばかりしていた頃から考えれば それは当然のことだったけれど。 短くなりかけたフィルタをサイドチェストの上のクリスタルガラスの器に落とす。 ピアノの側で煙草を吸うことを良しとしないここの家主は、しかし文句を言いながらいつも灰皿を置いておいてくれる。 手伝わせた書類が一段落ついたと同時に疲れきって眠ってしまった親友を思い出し、俺は小さく笑いながら鍵盤に手を伸ばした。 ハノンをいくつかこなして指を慣らしそれから深く息をして、 指先が紡ぎ出すのは、長いこと忘れていた懐かしい曲。 ピアノの音が聴こえた気がして、私は重たい瞼を開いた。 辺りを見回せばソファの上で、見慣れた自分のマンションのリビングが広がっている。 けれど身体に掛けられていたタオルケットには覚えがなく、覚めやらぬ意識を集めて記憶をたぐった。 昨夜は確か、葵が来ていたはずだ。 あの火事から半年、未だグループの会長代理と学院の理事長を兼業している彼はホテル暮らしに息が詰まると、 時々未処理の書類を持ってうちにやってくるのだった。 昨日もそうだ。保健室で管理している書類の整理や確認を片付けてグロッキーになって帰ってきたところに電話がかかり、 訪ねてきた葵の分の書類が少し落ち着いたところまでは覚えている。どうやらその後すぐ眠ってしまったらしい。 するとタオルケットをかけてくれたのは葵のようだが、この部屋には姿が見えない。 帰ったのだろうか。そう思いながら起き上がった時、またピアノの音が聴こえた。 「……舟歌…?……」 防音のはずのピアノ室から音が洩れてくるのは、おそらくドアを開けたまま弾いているから。 切れぎれに流れてくるチャイコフスキーの旋律に一度眼を閉じて私はリビングの扉へ向かった。 開け放したドアの側にが立っているのが、感覚で解った。 彼女は何も言わずこちらを見つめて佇んでいる。 俺はピアノを弾く手を止めず落とした視線もそのままで、ひとりごちるように口を開いた。 「……昔、兄貴の部屋でこの曲が入ったCD見つけてさ。リヒテルが弾いてるやつ。 聴いて、すげえ感動して……兄貴に弾けるようになりたいから教えてくれってせがんでさ」 あれはいつのことだったろうか。まだガキだった自分を思い出す。 「兄貴はいいよって言って笑って、でもその笑顔が意味深で」 どこか胸に引っかかりを覚えたまま習いはじめ、時間が経って曲が完成に近づいた頃。 「ある日優子さんが遊びに来た。 いつもみたいに兄貴がピアノを弾いて俺たちはそれを聴きながら本を読んだりトランプをして」 兄貴の好きなモーツァルトとショパン、シューマンやサティを一通り弾いた後。彼が舟歌を奏で始めた。 お手本で一度弾いてくれたことはあったが、兄貴が自ら好んでそれを弾くことは全くなかったのに。 「そしたら彼女は遊ぶ手を止めて眼を閉じて兄貴のピアノに聴き入って。 …で、俺に小さく囁いたんだ」 ――――― これがピアノ曲の中で、一番好きなのよ ――――― 瞬間、俺の中で何かが崩れる音がした。 それが何だったのか、どうしてなのか、その時は解らなかったが。
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