ばしゃ、と菫がグラスの水をあの人にぶちまけた。



呆然とした彼女。その隣には驚いた表情の葵。
菫はじっと母を見つめる。




やがて葵がゆるりと視線を上げた。
ラウンジのエントランス、大理石のフロアに立ちつくす私を見つけて
どこか泣きそうに瞳を歪めて笑う。





――――― 出来ることなら、私は葵に水をかけてやりたかった。










                              










その場面に出くわしたのは、偶然だったのか必然だったのか。
私は大学時代の同期や教授たちと久しぶりに集まっていて、
『おいしいコーヒーでも』 と足を伸ばしたホテルのラウンジで、数時間前に学校で別れたはずの葵と再会したのだった。





「なーんで怒ってんの、ちゃんは。綺麗な顔が台無しだぜ?」





運転席に乗り込みながら軽口を叩くのを横目で睨んでも、葵はおどけたように肩をすくめてみせるだけだ。

あの後菫は優子さんと連れ立って帰っていき、私は半ば葵に引きずられるようにして集まりを抜けた。
どちらにしても見つけた時点で葵を捕まえようと思っていたので、都合は良かったのかもしれない。



流れだしたステレオから低くヘレン・メリルの歌声が響いて、けれど今の私にそれを楽しむ余裕はない。
訊きたいことも ――― 言いたいことも山ほどあった。



「どうして怒ってるか、解らないの?」

私は正面を見据えたまま低く吐き捨てる。
それは思いの他冷たく響いて、私を振り返った葵の目がわずかに見開かれた。


ほんの数日前だ。
あの人が愛してたのは兄貴だけだったと、もう一度はっきり本人に言われたと私の所に来て
今にも崩れてしまいそうな脆い気配を纏っていたくせに、今日のことをどう説明する気なのだろう。


車内に静寂が落ちる。
葵はステアリングを操りながら、私は腕組みをしたまま互いに何も言わなかった。


どのくらい走っただろうか、緩やかにブレーキがかかり葵がギアをニュートラルに戻して車を停めた。
窓から見える景色はどうやら地元の港のそばの公園のようだ。





「…悪かった」




葵がぽつりと呟き、その掠れた声の方に向き直る。
彼は苦笑とも自嘲ともつかない形に口唇を横に引いて、前髪をくしゃりと握りしめた。




「あの人に呼ばれたんだ、『お茶でもしましょう』ってな。
 最近分家に付きっきりだったからストレス溜まってるんだろ」
「それでもあれからいくらも経ってないのに、よく出かける気になったわね」
「分家の話、聞きたかったんだ」


ふとトーンを変えた声音に私は眉を寄せる。
葵は煙草を1本取り出して火を点け、口に含む。



「…本家が進めてた新しい事業が破綻した」



今度は私が目を瞠る番だった。
宝生本家の事業の破綻。それはすなわち分家の力を借りなければならないということ。

「分家は、本家の継承権を菫に譲渡するなら助力してやると言ってる。
 つまり、兄貴が動きやすくなる」
「まさか…」
「そう、あの人は宝生を潰すつもりだ。
 ロクでもない家だけどな。それだけは、させられないんだよ」



”だから形振り構ってられなかった、使えるものは何でも使おうと思ってな。最低だろう?”



口には出さない言葉がその表情に滲んでいて、胸の中で渦巻いていた嵐が勢いを失っていくのが解る。
思い切り息を吐き出して、葵の額を思い切り指で弾いた。


「…って!何するんですかせんせ。痛いじゃないですか」
「泣きそうな顔してんじゃないわよバカ。
 あーあ、誰かさんが余計な心配掛けるからおいしいコーヒー飲み損ねたわ」



横目で葵を覗えば、口許にはもういつもの食えない笑みが戻っている。



「それじゃ、親愛なる悪友のためにおいしいコーヒーでも御馳走しましょうかね」



言いながらギアをローに切り替え、ゆっくりと車が動き出す。
さよならの言い訳に、私は自分の甘さも一緒に逃がすように深い溜め息をついた。











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