1.ある雨の日の夏 夕暮れ ばしゃん、と水が跳ねる不細工な音がする。 ほんの数刻前まで抱きしめていたはずのその人はいとも簡単に俺の腕をすり抜けて、 「私は、あの人を愛しているの」 「優子さん!」 降り注ぐ雨が遠くなる華奢な後ろ姿を俺の視界から隠していく。 傘を差しているはずなのにどうしてか、俺の身体はずぶ濡れで冷え切っていて。 「優子、さん」 呟いた名前は足許の水溜まりに吸い込まれる。 動くこともできずただ俺は、その場所に縫い止められたように立ちつくすだけだ。 雨音が激しさを増したような気が、した。 2.(少し時間を戻して)ある雨の日の夏 午後 その日は朝からずっと雨が降っていた。 梅雨どきには降りもしなかったくらいの激しい雨で、アスファルトを叩きつける透明な粒に何となく胸騒ぎを覚える。 「さん」 呼ばれて顔を上げると向かいの図書館から歩いてくる桔梗の姿があった。 その手には彼が差しているのとは別に、もう1つ傘が握られている。おそらく葵の分だと私には解った。 昼前から彼の兄を見ていないことを告げると桔梗は「困りましたね」と首を傾ける。 朝、出掛けに持って行かなかったのだと言う。 私はそれを預かって帰りがけに探してみると言うと、桔梗は安心したように戻っていった。 それから家までの道の途中を探した。 行きつけの店や葵が友人たちと集まる場所などを歩いたが、見つけることはできなかった。 雨は止むどころかますます酷くなって、形にならない不安を掻き立てる。 結局持って帰ってきてしまった彼の傘が、所在なさげに玄関の片隅で佇んでいた。 3.ある雨の日の夏 真夜中 まだ戻らないと桔梗から連絡があったのは日付変更線を越えた真夜中だった。 彼が夜中や明け方に帰ってくることなど稀ではない。が、さすがにこの大雨に弟も心配になったようだ。 私も普段ならいつものことと放っておくところだが今日はそれはできない。葵の傘と自分の傘を掴んで家を出た。 そして、胸騒ぎが現実のものになったことを、知る。 宝生の屋敷の長い塀に沿って走る。広大な敷地を囲む塀が今は果てないように思えて怖かった。 走って、走って、走って。途切れた向こうに開けた十字路に私は背の高い人影を認めた。 「葵!」 「・・・、 」 借りたのか貰ったのかは知らないが、彼は傘を差している。 文句の1つでも言ってやろうと駆け寄るが、しかし私は近くなるほどにその様子がおかしいことに気づいた。 傘を差しているはずなのに、葵は全身ずぶ濡れだったのだ。 「葵?!どうして・・・」 その後は言葉にならなかった。 突然伸びてきた腕に抱きしめられて、互いの手から差していた傘が舞う。 「・・・・・・た」 「え?」 耳元で呟かれた泣いているような掠れた声はあまりに小さく、雨音にかき消される。 「もう一度、言」 「――――― 優、子さん、を ・・・・・・・・・抱いた」 その瞬間私の手から預かっていた傘が落ち、 降り続く雨と共に、私は彼を失った。
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