まだ東の空に完全に陽が昇りきらない早い時間。
スーツケース1つでひっそりと家を出ようとしていた私は、玄関で待ち受けていた兄の姿を見つけて驚いた。



「どうしたんです、こんな朝早くに起きていらっしゃるなんて。明日は雨ですか?」
「…ほんっと失礼だな、桔梗ちゃんは」


短くなった煙草を携帯用のトレイに落としながら眉をひそめる様に小さく笑う。
すみません、と言うと彼は軽く肩を竦めながら座っていた椅子から腰を上げる。



こちらに向けられた色素の薄い瞳からは普段の愉しげな光が消え、
代わりにまっすぐで真摯な眼差しがそこにあった。





――――― らしくない。全く、らしくありませんよ、葵さん。





心の中でそう呟いて、しかしそうさせているのは誰でもなく自分なのだと思い当たると思わず苦笑が滲む。
そんな私をじっと見ていた彼は、しばらくしてからゆっくりと口を開いた。



「行くのか」
「…ええ」



目の前の男を、自分自身を納得させるようにしっかりと頷く。
もう決めたこと。
それは揺らがない。
彼もそれは知っている。知っていて、わざと訊いているのだ。



「本当に意地の悪い・・・」
「お前に言われちゃ俺もお終いだな」

そう笑った瞳にはもう揶揄うような色が戻っていて、それに安堵しながら私はスーツケースに手を伸ばす。



「そろそろ迎えが来ますので、出ます。
 …葵さん、後のことは」
「解ってる、心配すんな」
「すみません」


頭を下げようとするとすっと伸びてきた手がそれを止め、ぐしゃぐしゃと髪をかき回された。


「バーカ、頭なんか下げるなよ。俺はお兄ちゃんだぜ?」


ぽん、と軽く頭に手が乗せられる。


「じゃあな」
「、 はい」


ともすれば語尾が震えてしまいそうになるのをぐっと堪えて微笑み扉に手をかけた背中に、最後の言葉が掛かる。




「――――― いつでも、帰って来いよ」




振り返った視界に閉じかけた扉の隙間からいつものように唇の端を上げた不敵な笑みが一瞬飛び込み、重たい音と共に消えた。



「…ありがとう、ございます」





もう閉ざされた扉の向こう、おそらくまだ立っているであろう兄にそっと告げて、
私は射し込み始めた朝日の中を一歩踏み出した。