そうきっと、誰も知らないけれど。 それでも希わずにいられないことが、ある。 屋上に続く冷たいアルミ戸を開いて最初に視界に入ったのは、フェンスに凭れる見慣れた姿。 夕暮れの風が白衣をばさりと揺らす。裾をさばきながら歩み寄り、私は彼の横に立つ。 「・・・あの人は」 まるで私が来ることを知っていたように葵が口を開く。同じように自分もフェンスに背を預けた。 「ただいま面談中。相変わらずともゑが逃げまくるもんだから苦笑いしてた」 「そうか」 お子様にも困ったもんだな、と言いながら葵がスーツのポケットからボックスケースを取り出す。 吸うか?と差し出されたフィルターを見て私は思い切り眉を顰めてみせた。 「あたしが吸ってどうするの。一応校医なのよ?示しつかないでしょ」 「昔吸ってたのがバレたら”医者の不養生” て父兄に文句言われたりしてな」 自分のことは棚に上げて愉しげに笑うと吸い込んだ煙を深く吐く。 しかし彼はまだ長いままのそれを携帯用のアッシュトレイに押しつけ、新しい1本を探りにかかる。 それを見た私は葵の手から銀色のライターを奪うと、片手を添えて風を避けながら火を彼の前に差し出す。 葵は少し首を傾けて、温度の低い炎を葉に灯した。 「サンキュ、せんせ」 「どういたしまして、葵理事」 葵がこういう吸い方をするときは大抵考え込んでいて無意識にやっていることが多い。 原因は解っているけれど何も言わないし何も訊かない。向こうが話す気になるまで。 これが長年の私たちの暗黙のルールだ。 西の空に黄昏が近づき風がぶわりと沈黙の隙間を縫っていく。 次の瞬間、普段の彼には似つかわしくないほど穏やかで哀しげな声が私の耳元を揺らす。 「・・・なあ、、愛って何なんだろうな」 胸が痛くなるようなその響きに眼を閉じる。私にも、解らない。 ただ漠然と解るのは、 家族や友人に示す”愛”とたった一人大切な誰かに示す”愛”が似て非なるものであることだけだ。 私も確かに葵を愛している。 けれどそれは長い年月の間に降り積もった親愛に近いもので、唯一のものを教えたり与えたりしてあげることはできない。 「あたしにも、解らない。 ・・・きっと、誰にも」 そうきっと、誰も知らないけれど。 それでも希わずにはいられないことが、ある。 (いつか出逢う、まだ見ぬ姿も知らない貴女、どうか彼を ――――――)
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