自分が夢を見ていたことなんか知らなかった。
振り向けばいつもそこにマリがいて微笑むから、ずっと胸に抱いたままどこにも戻りたくないと願っていただけだ。


















震える声が、しかしはっきりとその言葉を告げた瞬間、すべてが真っ白に消え失せた。






残像 なのだと






狂ったように辺りを探したけれど先程までそこにいたはずの姿を見つけられず、僕は気づいてしまった。





もうマリはここにはいない。
そして自分は夢を見ていたのだということに。





突然やってきた“終わり”は驚く暇さえ与えてくれずに現実を突きつけ、
喉の奥から絞られた血を吐くような叫びと頬を叩いた涙は記憶に深く爪痕を刻んだ。
今夜のことは、きっと死ぬまで忘れられないだろう。












あれからどうしたのかよく覚えていない。
ふと気づけば、邸内のマリの家にあるアップライトピアノの前に立っていて。



窓から見える空にはもうすぐ黎明の予感。
長い間佇んでいたのであろう脚が悲鳴を上げていて、僕はピアノの椅子を引いて腰を下ろした。


がらんとした、けれど整頓された空間にはマリが使っていたものがそのまま残っている。
車椅子、ベッド、そしてこのピアノ。


一緒に習っていたときはよく連弾をした。モーツァルトのきらきら星、猫ふんじゃったで追いかけっこ。
くたくたになるまで弾いて、最後には2人ともずっと笑っていたっけ。



ふっと思わず笑みがこぼれて、僕は目を瞠る。





「…なんで、」





マリとの”想い出”を懐かしんだことなんてない。
だってマリはいつもそこにいたから、その必要がなかった。



――――― ああ、そうか。



眼を閉じれば、確かにどこか深い場所に潜む微かな夢の名残。
けれどそれ以上に、暗闇を抜けた瞬間に眩しく視界が開けたような感覚が僕にもう一度教える。



覚めたのだ、と。自分自身ですら見ていることに気づかなかった夢から…



僕は鍵盤の蓋を開いて、指先が動くままに弾きだした。
マリのために弾く、最後の曲を。



この先に何が待っているのかはまだ解らない。それでも歩き続ける僕を見守ってくれる?



穏やかで甘く切ないフォーレの旋律でマリに語りかける。
風に紛れて、彼女が微笑んだ気が、した。
















マリの家を出て屋敷の門へ向かう。
と、その側に座り込んでいる影を見つけた。


その影は僕の足音に気づいたのか、はっと身を起こしこちらに向き直る。
僕は気づかないふりをしてその横を通り過ぎ、そのまま敷地の外へ踏み出す。





「…紫陽兄!」





震える声、僕を夢から覚ました響きが、僕の名前を呼ぶ。
それでも止まらず数歩進んで、それから僕はそこに止まった。ゆっくりと振り返る。





「どうしたの、。そんな顔して」





何か言いたげにじっとこちらを見る瞳は赤く腫れていて、おそらく一晩中僕を待っていたのだと解った。



昔から、葵と一緒に自分の後ろをついてきた
遊んで、ピアノを教えて。そんな時間の中で、僕が彼女の気持ちに気づかなかったわけがない。


でも関係なかった。僕にはマリがすべてだったから。
けれどもう違う。夢から覚めた僕は、色んなことに答えを出さなければならないのだろう。





「ねえ、。 僕は、バカな女が好きなんだ」
「…わかってる」





真っ直ぐで痛みに飛び込む恐れを知らず、
人一倍他人の気持ちに敏感な彼女を知っていながら傷つけ、何度もそう言い聞かせてきた。

いつかその傷を塞いでやることができるだろうか。






「でも、お前は嫌いじゃないよ。
     バカじゃなくても、お前だけは」






が驚いたように息を呑み、そんな彼女に僕は微笑む。



――――― 今は、まだ。
僕にも、 彼女にも時間が必要だ。





だから今は、それだけ預けていくよ。





これ以上ないほどに見開かれた瞳から透明な滴が一筋流れる。
明けていく空から、朝の光が僕らの足元に降り注いだ。










夢 の あ と に   (3つの歌 より)