あの人は読めない人。
マイペース・唐突・気まぐれとなどという言葉たちを道連れに、どこへでも自由に漂って行ける人。

それでも彼の奏でる音だけは全て真実を語るから、その度に私はどうしようもなく泣きたくなる。










先生、さようなら」
「また明日。気をつけて帰りなさいね」





最後のSHRが終わり、下校する生徒や部活に向かう生徒で賑う昇降口を抜けて花壇に向かう。
今日は桔梗が出張で不在なので、代わりに水やりを頼まれたからだ。

近くの水道にホースを繋ぎシャワーヘッドを取りつけて蛇口を捻る。
偏らないようにまんべんなく水を撒きながら、ふと視線を上に投げた。

まだ4月だというのに、広がっているのはまるで初夏のように雲ひとつない空。
そういえばちょうど1年前、あの人を見送った時もこんな青空ではなかっただろうか。















『……便、ANA全日本航空ニューヨーク行きにご搭乗のお客様にご案内を……』



騒がしい成田のターミナルに搭乗手続開始のアナウンスが響く。
ふっと、最後の紫煙を吐き出した彼は短くなったフィルタを灰皿に押しつけながら立ち上がった。



「そろそろ行くよ。わざわざお見送りありがとう、
「……自分が来いって言ったんでしょうに。はい、これ」



失くしそうだからギリギリまで持ってて、と預かっていた航空券を差し出す。
『ん』と短く返事をしてチケットを受け取った紫陽兄は、しばらくそれを眺めてからジャケットのポケットに仕舞った。




「……兄弟と子供たちは来させなくてよかったの?」




明日成田まで連れてってよ、そう電話で言われたのは昨日の晩。
簡潔に時間と集合場所だけ告げた彼は、こちらの返事も聞かずに通話を切った。

人を気にせずわが道を行くところは相変わらずだ。夢から覚めてもそこだけは変わらないらしい。





「いいんだ。僕がお前に言いたいことがあったから、ギャラリーがいたら邪魔なんだよね」
「……言いたいこと?」

訝しげな表情になった私に彼は少し笑って、それから口を開く。




「あの時、僕が言ったことを覚えてる?」




あの時、というのは、宝生の屋敷の門の前で明け方に向かい合った時だろう。
私の耳に忘れられない、忘れてはいけない言葉がリフレインする。






―――――― 『でも、お前は嫌いじゃないよ。バカじゃなくても、お前だけは』






それは、自分の心が初めて報われた瞬間だった。覚えていないわけがない。
頷くと紫陽兄は満足気に微笑み、それから私の頭にぽんと手を置いて、耳元でそっと囁いた。





「今は、それだけ――――その言葉しかあげられないから、それだけ預けていくよ。
 だから僕が帰ってくるまで持ってて。不完全なピースだけど僕の”ココロ”、置いていくから」



そう言って笑った彼の向こうに広がる、抜けるような空の青が濡れた視界にやけに滲んだ。













「……よし、これで大丈夫かな」
逆行させていた記憶を現在に引き戻した私は、水道を止めてホースを片付ける。
白衣が地面につかないように中腰になり花壇を確認していると、背後から声がかかった。



「なーんだ。もう終わったんですか、せんせ」
「手伝ってくれるつもりだったなら遅すぎますね、葵理事」

くたびれた、と言った体で伸びをしながらやってきた葵が花壇の縁に腰を落とす。



「仕方ないだろ。桔梗のやつ、俺が逃げないように見張りまで立てて書類どっさり置いて行きやがった」
「見張り?」
「……綾芽と菫が授業終わる度にかわりばんこで覗きに来るんだよ……」
「……それはご愁傷様」


苦虫を数十匹いっぺんに噛み潰したような顔で葵が煙草を取り出す。しかし、風向きが悪いのかなかなか火が移らない。
見かねて風を遮ってやろうと立ち上がった瞬間。



―――――― ピアノの、音がした。



ばっと空を振り仰いだ私を葵が不思議そうな顔で見ている。
気のせいだろうか?もう一度耳を澄ませた。



確かに聞こえる。
……この、音は。



私は踵を返すと校舎に向かって走り出した。まさか、そんなはずはない。
だってあの人は、今、海の向こうなのに。




「……兄貴……?」




振り返りもせず脇目も振らずに飛び出した私は、呆然と葵が呟いたことなど知る由もなかった。










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