「……センセイ、遅いわね」 読んでいた雑誌から顔を上げ壁に掛けられた時計に視線をやる。時刻はちょうど八時を回ったところ。 明日は先生が久しぶりに週末にオフを取れた日で、仕事が終わったら一緒に帰ろうというのでこうして待っている次第だ。 先生はどうやら会議が長引いているらしく(医療研究課の集まりだそうだ)約束を一時間過ぎてもまだ戻らない。 お茶でも淹れようかとソファから立ち上がると、デスクの椅子の背に無造作に引っかけられたジャケットが視界の端に映った。 ハンガーにかけておこうと手に取り広げればふわりと持ち主の香りが漂って、それだけで少し胸がざわめく自分を小さく笑う。 「彼女を待たせるなんて、ほんと、サイテー」 軽口を叩きながらジャケットの両袖をつまみ、何の気なくくるりと回ってみる。 そのままステップを踏んで緩やかに移動しながらジャケットとシャドウ・ダンスを踊った。 (ステップは一年の体育の授業で習っただけだけど、案外覚えてるものね) ダンスはテニスなどのスポーツと違い、どのみち身体で覚えないことにはサイコメトリーしてもあまり意味がない。 基本くらいはクリアしないと点数をやらないと言われていたから、みんな必死に練習してたっけ。 そんな懐かしさに浸っていると、背後から笑みを含んだ声がかけられた。 「――――“お上手ですね、綺麗なお嬢さん”?」 驚いて振り返ればいつの間に戻ってきたのか、扉に凭れてこちらを眺めている長身の男。 「……いつからいたの?」 「ん? ついさっき。入ってきたのに気付かないくらい夢中だったからもう少し黙ってようかと思ってたけど」 言いながら彼は手に持っていた書類を傍らのソファに投げ、楽しそうな笑顔で近づいてくる。 「待たせておいて第一声がそれ? あきれた。 まだこのジャケットの方がマシね、余計なことは何も言わないもの」 「なるほど。でも上着はリードもしてくんないと思うけど?」 気恥ずかしくて顔を背けた向いた私をジャケットごと緩く腕の中に収めて先生は「待たせて悪かった」と囁く。 仕方ないわね、と顔を上げると額にキスが落とされ、鼻先を掠めて唇が重なった。 「ひとつ、纏めるのに時間かかりすぎた議題があってな。遅くなった」 「それは、お疲れ様」 「サンキュ。……で? そんなに紫穂ちゃんは俺と踊りたかったのかな?」 「別にそういうわけじゃ……きゃっ!」 額を合わせたままニヤニヤ笑っていた先生が私の手を掴み、ダンスのホールドの形に身体を固定する。 そのまま顎を肩の上に乗せられてくすぐったさに首をすくめた。 「ステップ上手いじゃん。習ってたのか?」 「ううん、学校の授業でやっただけ。センセイは踊れる?」 「向こう…米国にいたときに必然的にな。プロムやらダンパやらあったからさ」 「踊れないとカッコ悪くて女の子落とせないもんね」 「そうそう……って、紫穂さん? そうじゃなくって」 「引っかかったー」 さっきのお返しよ、と舌を出すとさらにぐっと引き寄せられる。 「ほお? そうまで言われちゃぜひとも俺の本気を見てもらわんとな」 「っ、センセ、」 『ごめん修二、いる? さっきの会議の追加資料配り忘れてたらしくて、預かってきたんだけど』 耳元でしゃべらないでと言いかけた時、部屋の外からドアをノックする音とよく通る声が響いた。 「……いいタイミングでいい奴が来たな」 満足そうに先生が扉を見遣った。 偶然訪れた桐子ちゃんを捕まえて向かった先は、会議室などがいくつも並ぶフロアの中の一室。 先生は扉に差し込んだカードキーが電子音を立てたのを確認してから引き抜き、両開きの扉を開く。 大きさは中程度の会議室だが、机などは後ろに下げられていて真ん中ががらんどうになっていた。 「ここは会議室っつーかまあ、物置きを兼ねたホールみたいなもんだな」 「へぇ、こんなところがあったのね」 「本部は広いからな。他にも色々こんな感じのところがあると思うぜ――ほら、あれだ」 先生が指を差した一角に、カバーの掛けられたアップライトピアノがあった。桐子ちゃんが近づいてそれを取り去る。 「ベヒシュタインのアップライトよ、これ。管理官のご実家にあったのを引き上げてきた年季モノ」 「……ベヒシュタインってまさか――」 「そのまさか、『ピアノ御三家』のあのベヒシュタイン。 さすが男爵家のご令嬢はスケールが違う」 感心しながら彼女が鍵盤の蓋を開けてAのキイを押す。 広い空間に溶けるのは、今もきちんと手入れされていることがわかる淀みない音。 「……ね、センセイ。桐子ちゃん巻き込んでよかったの?」 「せっかく紫穂と踊ろうってのに、CDじゃ無粋だし? それにこいつはそんなこと気にしないさ。だろ?」 今更ながらに問えば、 先生は指慣らしにハノンをこなし始めた親友を振り返る。 「まあ、ね。あたしは紫穂が楽しいならそれでいいのよ」 「……お前、ほんっとチルドレンに甘いよな」 私の方に器用なウインクが飛んできて、それを見た先生がやれやれと肩を竦めた。 「でも、桐子ちゃんがピアノ弾けるなんて知らなかったわ」 「昔取ったなんとやら程度だけどね」 音階を降りてきた彼女は、がっかりさせたらごめん、と苦く笑って先生に向き直る。 「それで、曲は何にする?」 「ピアニストさまに任せるよ。 でも――そうだな。できればこの雲一つない夜空に映える、月にちなんだやつでもひとつ」 窓の外にはひっそりと佇む仄白い月。まだ僅かに不完全な円が静かな輝きを放ち、とても美しい。 先生の要望に答えるかわりにピアノから前奏が流れ始めて、彼がひゅうと歓喜の口笛を吹く。 「ナイス選曲。さて――“お嬢さん、僕と踊っていただけますか?”」 おどけた仕草のお辞儀と共に手が差し出される。笑いながら、“よろこんで”とその手に自分の手を重ねた。 リズムを取りながらゆっくりと動き出す。 (センセイ、これはなんの曲?) (古い映画の中に出てくる唄で、主人公の男とその相手がこれを歌って踊るんだ。歌詞があって――) 「……“この先には困難もあるだろう だけどそこに月の光と音楽と愛とロマンスがあるなら 音楽に合わせて踊ろう”」 耳元に呟く声がどこか切なげに響いたのは、おそらく気のせいではない。 けれどそれに気づかない振りで「素敵な詞ね」と微笑めば、相手も何もなかったように「だろ?」と返すから。 ――そうね、今だけは。 「桐子!」 先生がピアニストに向かってアイコンタクトを投げると、正確に意図を受け止めた彼女の紡ぐ旋律がアッチェレランドになっていく。 少しずつ、確実に速さを増して音楽は流れる。 「行くぜ。しっかりついて来いよ、紫穂!」 「え、センセイ、ちょっと待っ……!!」 くるくると視界が回り、ステップを踏む足が縺れそうになるのを必死でさばきながらリードする腕に背中を預けた。 いつかこんな風に一緒に月を見ることも、同じメロディに耳を傾けることもできなくなるかもしれない。 きっと涙を流すこともあるのだろう。それでも。 月光と音楽と――愛とロマンスがある限りは、こうしてあなたと踊っていよう。 |
・高校3年の紫穂ちゃんと先生。未来への一抹の不安を今だけは忘れて、というイメージです。 inspired by:"Let's Face The Music And Dance"(Frank Sinatra) |