邸のはずれには大きな桜の木があって、春には見事な花を咲かせて人々の目を楽しませる―――――― なのにどうだろう。今はもう秋口なのに、春にしか見られないはずの光景が僕の眼前に広がっている。 そしてもう一つ違うのは、満開の花の下に佇む誰かの姿があることだった。 「こんにちは」 僕に気づいたその人がこちらを振り返った。 灰白色の長い髪を一つに結わえた、茶色い瞳の綺麗な女の人だ、が…… (似てる……?) 「こんにちは」 『誰にでもきちんと挨拶ができるように』 と叩き込まれている僕は小さく頭を下げながら言葉を返す。 彼女はどこか眩しそうに目を細めて、「お利口なのね」と微笑んだ。 「あの、」 「なあに?」 「今は秋ですよね? ……なのに、どうして花が咲いてるんですか?」 微かな風に攫われて花びらが舞う。 彼女は木の幹に触れ、そっと表面を撫でながら口を開いた。 「季節を間違えて咲いているのよ」 「間違えて……?」 「そう、 『狂い咲き』 と言ってね。 台風のような強い風で葉が全部落ちてしまうと、眠っていた木が春と勘違いして花を咲かせてしまうの」 はらり、はらり。 落ちてくる花弁は、まるで彼女の髪の色と同化してしまいそうなほど、淡い。 「――――――本来の時季から外れた、ひとときの愚かな幻。 ……それでも美しいと、あなたは思う?」 真直ぐな眼差しが僕を見据える。 その瞳の強さが曖昧な答えを求めていないとわかるから、自分にできる限りの真摯さをもって頷いた。 「綺麗だと、思います。 ……たとえば幻だとしても、こうして目の前にあって、見えているから」 だから、と言葉を続けようとして僕は息を呑んだ。 問いの答えに満足そうに微笑む彼女の顔に、よく知る誰かの影が一瞬重なって…… 「不――――」 その名を呼ぶ前に、すっと伸ばされた人差し指が「黙って」というように僕の唇に押し当てられる。 同時に、凪いでいたはずの風が突然空気を震わせ、桜の枝を揺らした。 「また逢いましょう。 ……幻が作り出す、かりそめの季節に」 微笑んだままで、彼女の姿が薄くおぼろになっていく。 ざあっと音を立てて風が鳴り視界を覆い隠すような激しさで花びらが降り注ぐから、思わず目を閉じた。 ……そうして。 おそるおそる目を開ければさっきまでの出来事がまるで嘘だったかのように辺りは静まっていて。 何事もなかったようにまた風は凪ぎ、淡色の花の欠片は素知らぬ顔で空を舞い続けている。 「……また逢いましょう、か……」 添えられていたしなやかな指の感触が残っている気がして、立ち尽くしたまま無意識のうちに唇を撫でる。 やがて遠くから自分を捜す声が聞こえ、僕はそれに答えるために踵を返して走り出した。 その肩に花びらが一枚乗っていることに、気づけずに。 桜 幻 影 illusion #0
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